Data No. 148 |
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草津白根 芳ヶ平
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人知れぬ桃源郷 草津温泉から、白根火山を経て志賀高原に至る車道は、素晴らしい展望が楽しめるドライブ・コースだが、ガスにまかれることが多いのも特徴である。この道路は幾度も通ったが、晴れていれば遠方の山岳風景にばかり見惚れていたものである。それが、いつであったかは忘れてしまったが、ふとしたきっかけで、「芳ヶ平展望台」に立寄る機会を得た。 車を停めて、何気なく足元の世界を見やったとき、全く意外な美しい風景が広がっていたのに驚かされた。禿げて荒廃した草津白根火山の山裾に、明るい緑の湿原と点在する池塘が見える。人間世界から隔絶され、周囲を山に囲まれた谷底に、あたかも仙人が住むような別世界があった。 2001年、ようやくこの芳ヶ平(よしがたいら)を訪問する機会を得た。6月中旬の週末、草津温泉の格安の宿に一泊し、本来は温泉を楽しむだけでも良し、とした梅雨の時期だったが、日曜日は意外にも良く晴れた。それで、急遽芳ヶ平の探訪を決めた。 9:55、観光客が闊歩する白根火山も、通い慣れた本白根山にも背を向けて、白根火山の裾野を反時計回りするようにつけられた芳ヶ平探勝ルートへ足を踏み込む。 「死の世界」の裏側に、パラダイス この白根火山は、活火山であり、有毒ガスも噴出する「危険地帯」であり、生き物にとっては死の世界だ。ルート以外には足を踏み込まないように、柵が設けられている。これは有毒ガスからの人間の保護に加え、人間から自然を保護する目的でもある。低い潅木帯の探勝道では、高山植物の説明を聞きながら歩く熟年団体もいた。この探勝道は、ジープならば通行可能な林道だ。 左手に白根火山の荒廃した斜面を眺めながら、ゆるやかな「山下り」をする。と、その月世界のような斜面を駆け下りてくる若者の姿が見えた。あれあれ、何ということをやってるんだ、と眺めていたら、彼らの下った先には、立派な東京大学の火山活動研究施設があった。何か資料の採取にでも登って来たのか。 こんな荒廃した埃っぽい火山の麓に、本当にあの別世界があるのだろうか、と思えてきた頃、大きなカーブを回りこんだ先に、ようやく明るい生気溢れる緑の草原が足元に広がってきた。赤い屋根の山小屋も見える。明るい緑の湿地帯には、濃い緑の針葉樹の林が点在する。コロボックルが現れてきそうな、おとぎの世界のよう。 木道の敷かれた湿原 良く晴れるかと思った空は、期待よりもすっきりとせず、ガスが薄く上空にたなびく。はるか頭上の志賀草津道路を行き来する車のエンジン音が時折聞こえるが、このガスは、この芳ヶ平というおとぎの世界を、あまり俗人に知られないよう、身を隠す為のものかもしれない。この世の中には、周囲の環境の激変から隔絶され、守られたテーブルランドなるものが、アマゾンやアフリカの奥地に存在するが、ここはその逆で、周囲の環境から隔絶された谷底の別世界ではないか。 赤い屋根の芳ヶ平ヒュッテはモダンな山小屋だ。レストランまである。ここまで白根火山駐車場から凡そ一時間。ここから更に奥が、湿原の探勝コースである。木道が敷かれ、静かな世界にハイカーを誘う。 きれいなツツジが湿原に彩りを添える しかし、ここは広大な平原ではなくて、樹木を乗せた小丘が点在している。その斜面の樹木の隙間に、ツツジがはっと目を引くように鮮やかなピンクの花を咲かせていた。池塘の向こうには、純白のワタスゲが群落を見せる。ツツジもワタスゲも、人間の歩く木道から離れた場所にある。花の精が、「私たちは、そっとしておいてね」と、あえて木道から離れた場所を選んで咲いているかのよう。池塘の中からは、決して姿が見えないが、かえるがゲコゲコ鳴いている。ここは彼らにとっても、上空を飛ぶ天敵から守られた、楽天地なのであろう。 限りない静寂に包まれた探勝道をぐるりと一周し、ヒュッテ近くで昼食を楽しむ。木製のテーブルとベンチが幾つかしつらえてあり、牧場の雰囲気だ。ヒュッテには三々五々ハイカーが出入りし、途中で追い越した熟年団体も来て賑わっていたが、我々がのんびりと宴会をしている間に、ほとんどのハイカーは立ち去り、芳ヶ平は本来の静けさを取り戻していた。 桃源郷でゆっくりとランチタイム 心地よいワインの酔いを醒ましながら、往路を戻る。しかし、この帰り道はずっと登りである。車道を兼ねているので、決して急な登りではないが、汗が吹き出た。現世への帰還は、楽ではない。 白根火山の駐車場に戻ると、そこは紛れも無く「現世」であり、そこを闊歩する人々は、芳ヶ平を散策していた人々とは、全く別の人種であり、銀座通りを歩く人々と何ら変わらない姿だ。あっという間に現実の世界に戻ってしまった。明日からは、またこの現世で食う為に生きて行かなければならない。 こんな、目的地が出発点よりもずっと低いところにあるハイキングも、滅多に無い経験だった。我々は本当に別世界を訪れてきたのだ。志賀草津道路は数え切れないほど通っていたのに、何故いままでここに来なかったのだろう。芳ヶ平の精は、あまり人間が来ないように牽制していたのだろうか。ならば、あまり何度も来ない方が良いだろう。でも、俗世の生活に疲れた時、いつかまた、静かに訪れさせてもらいたい別天地だ。■
2001年6月16日(土曜日) 6月17日(日曜日) |