Data No. 55 |
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北アルプス 笠ヶ岳
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笠ヶ岳は、穂高岳の頂上から見ると、深い谷を隔てて、両肩をいからせた僧侶が菅笠を冠ったような姿で立っている。新田次郎の小説「槍ヶ岳開山」でその名前を知り、播隆上人が槍ヶ岳を極める前に、開山した山として、強く印象に残っていた。これまで、いろんな山の頂上から、稜線から、笠ヶ岳の姿に憧れの眼差しを向けてきたものだが、主稜線から外れた位置にあり、なかなか登頂の機会を得なかった。ようやく私も北アルプスの主要な縦走路を一通り歩いたので、今回はこの笠ヶ岳を目標とした。 関東は7月21日に梅雨明けしたが、北陸はまだ梅雨空が続いているのが、気がかりではあった。 7月26日(金曜) 新穂高温泉からへとへとで笠ヶ岳へ 夜通し運転で、夜明け頃に安房(あぼう)峠を越えて岐阜県に入る。梅雨明けしていない当地の空は雲が垂れ込めている。平湯を経て新穂高温泉駐車場に5:30到着。疲れたので、8時頃まで車の中で眠る。予報では、曇り時々雨、午後から処により雷雨という、私を意気消沈させるに充分な内容だ。 8:40出発。一昨年裏銀座を縦走後に下山で歩いた蒲田川左俣沿いの林道を登って行く。出発時間が遅かったので、同じ方向へ歩く人の数は少なく、時たま下山者とすれ違うだけ。 45分程で笠新道入口に着く。ここから林道を離れ、山道となる。いきなり樹林帯の中の急坂をジグザグに登って行く。完璧に人気の無い山道だ。徐々に背後の蒲田川の水面が低くなって行くが、雲に覆われて稜線は見えず。この斜面の急登はウンザリするほど続く。地図を見ても、稜線まで5時間40分となっているのみで、途中の目安が何も無い。新穂高温泉の標高は1000m程度だが、目指す笠ヶ岳は2,897.5mもある。2000m近い高度差があるのだから、きついのは当然である。 心細く、辛い登りを3時間余りで、漸く傾斜が緩む杓子平に出た。薄ら寒い風に高山植物の花が揺れていた。ほっと一息つけるが、稜線はまだまだ先だ。とにかく視界が利かないのが精神的に辛い。道はやがて森林限界を越し、岩だらけの斜面の急登になる。両手両足をフルに使い、ペンキの矢印を忠実に追って行く。今日の登りで一番きつい所だ。 新穂高温泉から延々と5時間をかけ、心身共に参りそうになった頃、ひょっこりと稜線に出た。この時の嬉しさといったら、過去の登山でもそうは無い。稜線で進路を左にとり、笠ヶ岳山荘を目指す。冷たい風がヒューヒューと唸る。一刻も早く、温かい山荘に着きたい。登っているのか下っているのかよく分らない稜線を進んで行き、「抜戸岩」という奇岩をくぐりぬけて行くと、ようやくはっきりとした登りになる。白いガスの中に、カラフルなテントが幾つか見えてきて、そのキャンプ場から更に登った所に小屋はあった。ガスのために、ほんの直前まで小屋の姿は見えなかった。14:45、六時間余りの苦労が報われる。 笠ヶ岳山荘の前で。空いていて快適に過ごせた。 既にこの日の登頂意欲は無し。小屋は空いていて、8人定員の二段部屋の上段を、私は一人で専有できた。道中は我慢していた昼食を、小屋の土間でようやく食べる。ビールで心も癒す。元気良く燃えるストーブの熱がとても有難い。その後一眠りし、夕食は腹一杯いただく。同宿の人は15人だ。食後は消灯時間までウィスキーを舐めながら眠気の来るのを待つ。 予報では、明日も天気の回復は望めない。今年の夏は一体どうなってるんだろう。泊り客に一所懸命つばを飛ばしながら話しかける小屋の主人の話に耳を傾けていると、面白い逸話が沢山あるようだ。すぐ傍の小笠に落雷があった際、火の球が小屋の中をぐるぐると駆け巡り、恐怖のどん底に陥ったという話は、とても迫真的だった。
7月27日(土曜) 笠ヶ岳を登頂し、槍を目指すが... 慌てふためいて、カメラを抱えて出発準備をしているおじさんの音で目を覚ます。窓から外を見ると、何と、槍〜穂高の稜線が朝焼けのオレンジ色の光線に縁取られ、くっきりと浮かんでいる。私も早速、おじさんに遅れをとるまいと、カメラを抱えて寝惚け眼をこすりながら準備する。午前4時のこと。 予報では、今日は好天が持続しない。この朝一番のチャンスを逃すことは絶対出来ない。槍の肩からいよいよ朝日が昇る。と同時に麓から急激に雲が湧いてくる。笠ヶ岳頂上への岩だらけの急なジグザグ道を息を切らせて急いだ。 何とか間に合った。山荘から約30分の登りで、標高2,897.5mの笠ヶ岳山頂に立つ。穂高連峰から槍ヶ岳への岩稜が、足元の深い谷を隔てて、屏風のようにそそり立つ。とてつもなく高い屏風だ。あの稜線の反対側、常念岳から眺めた穂高連峰は、中腹に涸沢圏谷を抱き、東から朝日を浴びて、明るい壁を見せていたが、同じ山稜を、この飛騨側から見ると、奈落の底から漆黒の絶壁を天に突き上げている。飛ぶ鳥も羽根を休め得ぬ滝谷のその姿は、まさに地獄の山の様相であった。槍・穂高だけではない。遙かに見渡せば、過去に私も足跡を印した三俣蓮華岳、鷲羽岳、黒部五郎岳なども姿を見せる。冷たい風に吹かれながら、思いがけなく得られたパノラマに大いに感動した。 展望を5分も楽しまないうちに、まるで魔法使いの魔術のように中空から真っ黒な雲が「ヒュー」という音と共に湧き出して頭上を駆け抜け、穂高岳の方へ流れて行く。そしてあっという間に視界を閉ざした。 山荘で朝食は自炊し、6:20に出発。このまま天候の回復がなければ鏡平経由で下っても良いし、天候が回復するならば槍ヶ岳を目指したい。昨日は全く展望が利かなかった稜線を北へ向けて縦走する。新穂高温泉から苦労して登ってきた道を右に分けて更に進むと、ほどなく抜戸岳(2,812.8m)だ。縦走路から外れた山頂に、ガレ場をよじ登る。すると昨日ひどく苦しみながら登ってきた笠新道が丸々見える。新穂高温泉の建物がはるか2,000mも下の谷底に佇んでいる。 これからたどる弓折岳方面の稜線 昨日出発した新穂高温泉が遙か下に 雲が厚くなっているが、槍・穂高の稜線は右手に時々姿を見せる。人気の無い稜線歩きで、その雄姿だけが心を慰める。道は一旦急に下り、「秩父平」という窪地に出る。高山植物の花が咲き乱れていた。この付近から、笠ヶ岳に向かう人々とのすれ違いが増える。 思い切って下山を決意 大ノマ乗越を過ぎ、木の根が張り出したうるさい薮を掻き分けて急坂をよじ登ると、やがて弓折岳(2,588.4m)の山頂だ。誰も居ない山頂では記念写真を撮るのに苦労する。景色は再びガスに閉ざされる。これで心は決まった。鏡平から新穂高温泉に一気に下ってしまおう。いいではないか。槍も穂高も既に晴天下に登ったことがあるし、きっと好天の日に再訪を果たせるチャンスはある。 双六岳分岐から鏡平へ向けて下る。2年前も双六小屋から天候悪化で槍ヶ岳を諦めてここを下った。何か因縁を感じる。鏡平小屋で小休止し、再び歩き始めた頃からとうとう雨が落ち始め、次第に雨脚は激しさを増す。2年前と全く同じパターン。雨具を装着しても、その雨具の下で、全身が汗でびしょ濡れだ。 漸く平坦な林道に出て、ワサビ平小屋でビールを飲む。しかし、いまひとつ美味しくない。胃袋の中でチャポンチャポンと水分が消化しきれずに揺れている感じ。ビールの苦さだけが口に残る。 ワサビ平小屋から更に1時間歩けば、新穂高温泉だ。バス停広場にある無料の温泉浴場で汗を流す。僅か2日間で標高差2,000mを往復したので、足の筋肉はパンパンに張っていた。ほのかに硫黄の香りのする熱めの湯に、身体を沈めて筋肉をほぐす。そして、乾いた服に着替えて、サッパリとする。 長い間憧れだった笠ヶ岳に登頂し、悪天候の予報ながらも、素晴らしい槍・穂高の姿を眺められたのは思いがけない幸運だった。笠ヶ岳自身の姿も、中空にすっくと立ち、本当にスマートで威風堂々たるものだ。地味な存在ながらも、私に大きな感動を与えてくれた笠ヶ岳に感謝したい。■
笠ヶ岳山行行程 7月26日(金曜) 7月27日(土曜) |