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Data No. 9

 データ:
 登頂日: 1984年8月5日
 標高 3,776m
 場所: 山梨・静岡県境
 天候: 晴れ
 登頂時の年齢: 30歳
 同行者: Y夫妻

 

富 士 山


不夜城、新宿を後に

8月4日(土曜日)〜5日(日曜日)

  夕方、Y夫妻と新宿で待ち合わせ夕食後、19時発の富士山五合目行バスに乗り込む。バスは十数台が連なり、どの車両も老若男女で満席となり、通路の補助席まで埋まる。不夜城の新宿を後に、中央道を快走し、河口湖から富士スバルラインをよじ登り、22時に富士山吉田口五合目に到着。五合目は土産物屋や休憩所が沢山立ち並び、温泉街のバスターミナルのよう。どの店も登山客で溢れかえり、休む場所を見つけるのも容易ではない。此処の標高は既に2,300mに達する。しばらく休憩してから頂上を目指すことにして、ビールを飲みおでんを食べた。はて、ビールなどを飲んでしまって大丈夫かなと思ったが、気が付いた時には缶は空になっていた。
 

夜間登山に出発!

  23時出発。広い道を若干下り気味に進むので、この道で良いのかと心配したが大勢の人が歩いているので間違いは無さそうだ。満天の星が煌き、身体が冷気でキュンと引き締まる。麓の蒸し暑さが嘘のよう。麓にも夜空との境目が分らない位に街の灯りが瞬いている。あそこでは人々が柔らかい布団に包まって眠っている。何故、俺はこんな深夜に苦しい思いをして山なんかに登ろうというのだろう...。

  あっという間に六合目に着いた。七合目にも比較的楽に到着した。しかし、其処からがとても長かった。道は狭くなり、登山者の行列に切れ目が無くなってきた。Y夫妻に疲れが見えてきたので、しばしば休憩をした。標高が高い為に、空気が薄くなり、息が苦しそうだったが、私は不思議と何とも無かった。ひどい人は倒れたり、背中をさすられながら嘔吐している。

  体調は良かったが、大勢の登山者が持っている鈴付き杖のチャリンチャリンという音と、他人の懐中電灯の不規則な直射にいい加減悩まされた。しかも、これだけ大勢の登山客がいると、しばしば渋滞して前に進めず、自分のペースでの登山など出来たものではない。所々に登山道をわざと塞ぐように建っている山小屋の前が一段と混雑がひどく、10分も動けないこともしばしば。また、その山小屋の呼び込みも騒々しくて煩わしい。上を見ても下を見ても、ジグザグ模様の光の列が揺れながら延々と繋がっていた。まるで圧政に苦しむ江戸時代の農民が一揆を起こし、山上のお城めがけて火打ちの攻撃に向かうよう。全くウンザリするほどの人出だ。そのうち、猛烈に眠くなってきた。自分は高山病にもかからず、タフだと自負していたが、この猛烈な眠気も立派な擬似高山病の症状の一つだと後で知った。

  「八合目」が行けども行けども終わらなかった。しまいにはとうとう眠気に耐えられなくなり、20分程膝を抱えた姿勢で眠ってしまった。ぞっとするような寒気で目が覚めた時、「いったい此処はどこだ?」と、奇妙な感覚に襲われた。ああそうか、富士山に登っている途中なんだ、はてY夫妻は?とキョロキョロ辺りを見回すと、お二人とも、私の真後ろで同じような姿勢で眠っていたので思わず笑ってしまった。ほんの僅か眠っただけであるが、私は頭がとてもすっきりとした。Y夫妻を揺り起こし再び上を目指す。

  八合目で迎えた御来光

              下界は雲海の下に  

  混雑していなければ、日の出迄には山頂に着けると思っていたが、長い八合目が終わらない内に東の空が明るくなってきた。もう急ぎようもないので、その場で御来光を待った。午前4時、雲海の彼方に朝日が昇ってきた。それ迄身体がガクガクするほど寒かったのに、急に暖房が入ったように温かくなる。箱根や八ヶ岳から奥秩父の山並みが黒々と白い雲の上に浮かび実に綺麗だ。ところが、日の出と共に突然始まった大音響のロック・コンサートにムードをぶち壊しにされる。一体全体、何だってこんな山の上で騒音を立てなければならないのか。この山の管理者は何を考えているのか!この人込みでさえイライラさせられるのに、大騒音まで押し付けられる。いい加減にして欲しい。折角私の生涯で初めて拝んだ御来光が、びっくりして引っ込んでしまうのではないかとさえ思った。

  長い長い八合目もようやく終り、やっと九合目になった。Y夫妻は特にご主人がバテ気味で、私に先に頂上に行って待ってて下さいと言う。余り夫妻に気を遣うのも、彼らにとって重荷かも知れないので、先に行くことにした。しかし、九合目は距離こそ短かかったが、頂上直下で登山客がぎっしり詰まって、殆ど前に進めなくなった。3列に並んだ登山者の列が、頭上に見える鳥居まで数百メートルに渡って繋がっていた。極めてもどかしく、欲求不満の溜まる、恐ろしいまでの遅速で、ようやく午前6時に浅間神社の鳥居をくぐった。Y夫妻はそれから1時間ほどして登山道の片側の石垣につかまりながら精根尽き果てた姿で登ってきた。午前7時、全員が無事に富士山の登頂を果たす。

  頂上で真っ先に目に入ったのは素晴らしいパノラマでも、綺麗な青い空でもなかった。土産物を軒先までぎっしり並べた山小屋や休憩所と夥しい登山者の雑踏であった。その小屋の向こうに頂上のお鉢の対岸が覗いていた。一軒の小屋に入り休憩する。しかし、そこの番人達は登山客の身体状態に全く気を配ってくれる様子も無く、ちょっとでも誰かが横になると大声で怒鳴りちらす。本当に気分の悪い人や、少しでも横になれば回復する人だっていたであろうに。いやはや、いくら商売の為とはいえ、殺伐とした富士の山である。普通の山男山女が登る山の常識がここでは全く通用していない。この日本一高い山を阿漕な儲けの道具としてしかとらえていない、この連中に私は内心立腹した。

  朝ご飯としてY夫妻が持ってきてくれた美味しいおにぎりを食べた後、小屋の番人の目を盗んで、すっかりバテているご主人にリュックにもたれかかって休んでもらう。奥さんは頭が痛いと言うものの、ご主人よりはずっと元気だ。

   
        休憩後、お鉢の対岸にある測候所を目指す               スリ鉢の底はこんな感じ

お鉢巡りで最高点、剣ヶ峰に立つ!

  8時半頃、漸くご主人も元気が回復したので、お鉢巡りに出発する。直径800m、周囲4kmのスリ鉢状の頂上噴火口の縁を左回りに最高地点にある測候所へ登る。しかし、空気が薄いので、麓でのようには足が動かない。直ぐ近くに見えていた測候所ドームへの登りは、やたらと苦しかった。歩きにくい砂だらけの道をスローモーション映画のように歩く。富士山頂がこんなに砂だらけだとは予想外だった。今日は好天に恵まれ風も無いが、悪天候の時には想像を絶する烈風が吹き荒ぶという。それでも、よくもこれだけ高い山頂で砂が砂のまま残っているものだ。吹き飛ばされても、また吹き上げられてくるのだろうか。遠くから見ると誠に美しいこの山も、いざ苦労して頂上に来てみると、灰褐色の荒涼とした姿である。草木はおろか、登ってきた人間様以外に動植物の気配は無い。Y夫妻は、バテたご主人に代わって奥さんが重いリュックサックを背負う。ご主人は奥さんに叱咤激励されている。

  測候所のある「剣ヶ峰」が、正真正銘日本一高い富士山の海抜3,776mの山頂であるが、あれだけ大勢いた登山者のうち、剣ヶ峰迄登ってくるのはほんの僅かだ。だから雑踏から開放されて、すこぶる気分は良い。この日本の国で今現在、我々より高い所に居る人間は他に誰もいないのである。測候所の掲示板によると、9時現在の天気は晴れ、北東の風0.5m、気温8.6℃、気圧652mbであった。改めて富士山の大きさと高さを実感した。完全な独立峰なので、周囲の麓は360度雲海に囲まれ、肩を並べる山は皆無である。何といっても日本で二番目に高い北岳(3,192m)にも、600m近い差をつけている。

     
        最高点にあるレーダードーム                              ここが日本一高い山頂、3,776m!


  剣ヶ峰を後に、お鉢巡り後半にかかる。急斜面をしばらく下ると「銀明水」という所で、ここが御殿場方面の登山道。足元には新五合目の建物や駐車場が意外と近くに見え、しかも全員疲れていたので、お鉢巡りはここで終りにして下山する。岩がゴロゴロしている道をジグザグに下る。この付近は、数年前に落石事故のあった場所だ。振り返って上を見上げると、いかにも不安定で今にも落ちてきそうな岩の出っ張りが沢山あった。バテていたご主人は、下りになると俄かに元気を回復して歩くスピードが速くなった。

          (この日の気象状況)

  この日は御殿場から富士頂上を往復する登山マラソン大会があり、我々が下山している途中から選手達が次々と駆け上がってきた。初めの内は、ランナー達に拍手を送ったりしたが、次々と絶え間なく彼らが通る度に、いちいち立ち止まって道を空けなければならず、係員や選手達に「どけーっ!」と叫ばれると次第に私は機嫌が悪くなってきた。公の登山道を、登山客の多い、この日曜日に、我が物顔に占領して、ちゃんと歩く権利のある人に向かって「どけーっ!」とは何ごとか。足を引っ掛けてやりたくなる。この日本一高い崇高な山は、すっかり傲慢で儲け一徹な特権意識の塊の馬鹿者共に汚染され切っている。
 

分岐に気づかず御殿場口へ下山

  しばらくすると、黒い砂山の宝永山が現れ、砂走りにかかる。深い砂だらけの斜面に力強く一歩踏み込むとザザーッと一気に1m位進む。なかなか面白くて、これならば新五合目には直ぐに着けると思ったが、大間違いであった。知らない内に、頂上から見えていた富士宮口新五合目へのルートからは大きく外れて、太郎坊方面の二合目への道を下っていた。長い砂走りが終わって、大休憩をとったのが五合五勺で、そこから緩やかな大平原のような処を真っ直ぐに延々と下った。頂上を出てから三時間半後に着いたバス停が二合目だということは、東京に戻って地図を見てから初めて知った。最初の下り口で道を間違えていた。どうりで遠かった訳だ。最後は夢遊病者のように歩いていた奥さんには悪いことをした。喉はカラカラに渇き、砂が口の中でジャリジャリする。靴と靴下を脱いで見ると、砂がびっちり繊維の隙間まで入り込んでいた。

  バスで御殿場駅に出て、御殿場線と小田急電車にずっと立ちっぱなしで2時間以上かけ夕方6時に新宿に到着した。三人で夕食後、解散。重い足を引きずって家路につく。

  富士山は老若男女、あらゆる人々があまりにも気軽に登っていた。しかし、日本一高い山であり、当然空気も薄いので、決して今まで私が登った谷川岳や苗場山よりも易しい山とは言えない。甘く見てはいけない山なのだ。今回の山行を振り返る限り、こんな思いをしてまで、もう二度と登りたくない。私が好きな清々しい山登りの楽しさをこの山(というよりも、この山で食っている人間達)は与えてくれなかった。それでも富士山自身は紛れも無く日本一の山であり、崇高で素晴らしい山だと思う。そんな崇高な富士山はすっかり人間に毒されているようで悲しい。私としては、日本の象徴であり、最高峰である富士山に好天下で登らせてもらったことだけは素直に感謝したい。■


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